決死の覚悟で劇場へ
これだけ連日、新型肺炎のニュースで一色な中、編集者のあんちゃんが新作映画の原稿を催促してきやがってよ、旧日本軍でも老人には赤紙を出さなかったと言うのに、密閉空間の映画館に抵抗力の弱い老人を送り込もうなんて、仮にオイラが感染でもしてポックリいっちゃたらこれはもう立派な未必の故意だよ。そんな状況だから思わず「オイラの名前を使ってもう適当に書いてくれよ」と投げやりな言葉が喉元まで出かかったんだけど、『IT』を称賛するような知能でもってゴーストライターなんかをされちゃオイラが築き上げてきた名声も一気に吹き飛んじゃいそうだから、とにかく決死の覚悟で劇場に行くことした。
どうも新型コロナウイルスというのは最大2週間の潜伏期間があるらしくて、症状がないままに罹患した人間が1人でも館内にいればそれこそリアル『デモンズ』みたいになっちゃうから、人の少ないレイトショーを狙ってみるしかなくて、とにかく当てもなく夜遅くに劇場へ行って適当にチョイスしたのがこの『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』。
謎解きに都合が良すぎる「小説」とキャラ造形
見終わった直後の感想としては、そう退屈もしなかったし丁寧な作りではあったんだけど、その丁寧さは言ってみれば造花のように表面的な見栄えだけに留まって、どうも匂いと深みが漂ってこないといった感じだったの。でもそれがレビューを書こうとする段階になってちゃんと振り返って見れば、それは複数の翻訳家を地下室に隔離するというアイデアを映画という媒体で生かすためには話の構造上仕方のないもので、そうした中ではまあ健闘しているかなと思えてきたね。
なぜ深みを感じなかったかと言えば、9人の翻訳家が心酔して彼らの行動心理の軸となっている『デダリュス』という原作小説の肝心の中身がよくわからないからなんだ。本来はこの『デダリュス』の“思想哲学”というものを鮮明にして、それがこの作品世界やキャラクターらにどう強く影響を与えたのかをもっと掘り下げるべきなんだけど、そこの描き方がどうも足りなくてさ、ただ小説の一節や登場人物という表面的なものを引用して、キャラ付けやミスリード、果ては「自分の物は自分で守る(だったっけな?)」等々の翻訳前の原作をネットに漏出させた犯人を導き出すための伏線といった小道具的にしか扱われていないの。
つまりは9人の翻訳家、ややネタバレになるんだけど特に英訳担当で主人公とも言えるアレックスの行動は自身の『デダリュス』への思いや創作者としての哲学から事件を起こしたというよりも、先に謎解きというメインストリームがあって、そのうねりの中での『デダリュス』やアレックス自身も1つの駒として配置されたような感じで、そのキャラクターの造形が謎解きには都合が良すぎるんだ。だからどんな文学論や創作論、出版業界における過度な商業主義批判などのメッセージを物語に組み込んでも、そこにアレックスという人間の吐息を感じないからどうしても謎解きを進める上での飾りにしか聞こえなくて、奥行きの無いただの推理パズルにしか見えてこないわけ。
近年の日本の悲しい現実
ただそれも初めに言ったように、話の構造上そうせざるを得なかったとは思う。尺の無い小説であれば『デダリュス』の物語や哲学をもっと深く構築して各々のキャラクターとの連環を強く見せることができるんだろうけど、尺のある映画では架空の小説についてじっくり説明をしている暇はないし、どうしても物語を進めながら引用などでその世界観を断片的に見せては小道具的な扱いで謎解きに徹するしかない。だからそうした構造上の制約を考えれば、この映画はうまくまとめ上げたとは言えるよ。
オチに関しては言えばどこか『ユージュアル・サスペクツ』的で、個人的には積み上げてきたストーリーをその足場から全部ひっくり返すようなオチは嫌いじゃないんだけど、ミステリーの作劇に一家言を持っている偏屈な人間からはゴチャゴチャ文句を言われそうな部類の作品ではあるかも知れない。
ただ気になったのは各国語の翻訳本を世界同時出版すると言いながら、その中に世界有数の出版市場である日本が含まれてなかったことだね。仮にこの作品が2000年代初期までのものなら確実に日本語訳の翻訳家は登場してたとは思うけど、これも昨今の世界における日本の存在感の薄さの表象だと思うと何だか悲しくなるね。