権藤、権藤、雨、権藤のホラー鑑賞
前々回(IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。)がホラーで前回(インシディアス)もホラー、そんでもって今回もホラーとは、権藤、権藤、雨、権藤じゃないんだから、さすがのオイラも食傷気味だよ(意味のわからないよい子は「権藤 雨」で検索だ)。旧作だと編集者のあんちゃんが「新作じゃないとアクセスが伸びないんです」なんて突き上げて来るもんだから、重い足を運んで劇場に行ってはみたものの、毎度の如くそそるタイトルが見当たらない。邦画は『君の膵臓をたべたい』以来トラウマだから論外として、いい歳こいたオヤジが1人で『アナと雪の女王2』の客席に座るのは異様だし、『ターミネーター:ニュー・フェイト』という年寄りが主演の映画も見たいとも思わない。そうした消去法の結果、選んだのがこの『ブライトバーン/恐怖の拡散』だったというわけ。
どっかの映画サイトが「『ジョーカー』級の衝撃」なんて煽ってたから、『ジョーカー』に衝撃を感じなかったオイラには嫌な予感しかなかったけど、却って期待値が低かったこともあってそう失望することもなかったね。軽く腹を満たそうと牛丼屋に入ったらそう不味くない牛丼が出てきたって感じで、食った後に店を出ればもうすっかり牛丼のことは忘れてるってくらいの軽さの映画だったけど、見てる間は映画の本筋とは関係のないところで笑けちゃうところもあって、そういう意味では少しは楽しめたとも言える。
主人公はビースト梅原大吾?
この映画のアイデアは『スーパーマン』の逆をやろうということから始まったらしく、地球に舞い降りた異星人が善良ではなく邪悪な心を持っていたとすればどうなるかというものなんだけど、日本人からしてみれば『ドラゴンボール』の孫悟空だと言った方がわかりやすい。
ドラゴンボールの元ネタもおそらくスーパーマンなんだろうけど、悟空は人類を滅亡させるために地球に送り込まれた異星人(サイヤ人)で、幼少の頃に頭を打つまでは戦闘民族らしく獰猛な性格だったからね。言ってみればその悟空が頭を打たずにそのまま育ってしまった世界を描いたのがこの映画なんだ。
主人公のブランドンは子供のくせに怪力だし、空は飛ぶし、目からビームも飛ばしちゃう。銃弾を後頭部に食らっても何ともなくて、人類では対抗のしようがないくらいにスーパーサイヤ人なわけ。まさにビーストで、その顔もプロゲーマー界の“ビースト”こと梅原大吾によく似てて、そんなことを思い始めたらもうそれにしか見えなくなっちゃって困ったよ。
物語よりダイナミックな死に方を楽しむ
とにかく思慮の浅い子供がスーパーサイヤ人をやってるから、気分一つでやりたい放題。隠していたエロ本を母親に見つかってキャンプ先で父親から「お前もそろそろ年頃だから、我慢しなくていいんだ」と暗に自〇行為について臭わされたら、その含意を汲み取れず言葉の通りに我慢せず何十キロも離れた好きな女の子に家に舞空術で突撃して襲おうとするんだから、その溢れんばかりの性欲と行動力は老体のオイラには眩しいものがあったね(笑)。
ただその女の子にしたって途中からは見えなくなったように、ブランドンの内面に葛藤を与えるようなヒロイン的な存在ではなく、こうしたシーンを取りたいがために出て来た小道具的な存在であって、ドラマ性という意味合いではほぼ作用がないんだけど、目に破片が刺さったシーンや顎が外れたシーンなどグロテスクな描写に妙なディテールを発揮してたように、この映画は基本的にはビジュアル重視のホラーだから、ドラマ性は調味料みたいなものだと割り切って見る必要がある。
子に恵まれなかった両親の愛情を浴びて育ったブランドンが先天的な悪の衝動と後天的な良心との狭間で葛藤する場面や、またどんな意図でもってどんな星から送られてきたのかという描写をあえて劇中から省いたことに、この制作陣の心意気を感じてやらなきゃ。「この映画は物語を楽しむものではなく、登場人物がスーパーサイヤ人を相手にいかにダイナミックな死に方をするのかを楽しむものです」という彼らの声なき訴えをさ(笑)。
ストーリーという線じゃなく、ワンシーンという点を楽しむ。そうすることで高い金を払ったことに対して幾ばくかの精神の均衡が保てるってもんだよ。だからあまりドラマ性や内面描写の不備についてギャーギャー言っても仕方がない。『IT』なんかは妙に人間ドラマにも色気を出して映画全体がひどく散漫なものになってたけど、この作品はまだ振り切ってるからね。そこは認めてやろうよ。
納得の「廬山亢龍覇」締め
そもそもストーリー自体もブランドンが理不尽かつ強過ぎるから対立なんて描けないし、締め方にしたって母親が宇宙船の破片でやっつけようとしたけれど、それが成功していればブランドンの邪悪なスケールを最後の最後で矮小化してしまうことになる。つまりそうした勧善懲悪的なスタンスでは映画全体の色を破壊してしまうから、人間には手に負えない圧倒的な暴力との整合性からしてラストに展開された『聖闘士星矢』の紫龍が山羊座のシュラにかました「廬山亢龍覇」の実写版はオイラには納得のいく落とし所だった(下の画像を参照。見てない人と若いヤツらには意味がわかんないだろうけど)。
ただやっぱり見終わった後は何の感興も起こらなくてさ、映画館を出る頃には「ところでオイラは何しにここへ来たんだっけ」と徘徊老人のような気分になったからね。これは監督や制作陣が「悟空が凶暴のままに育った世界線を見てみたい」という己の好奇心のままに作っちゃったような映画で、ある意味ではブランドンというキャラのプロモーションビデオみたいなもんだから、よくよく考えれば上に張り付けた1分半の予告編を見りゃ十分だったんじゃねーかなと思えるほどの中身の薄さであることは確かだね。