熱狂ムードの改元に戸惑う
しかし改元で盛り上がるというのは妙な気分だね。基本的に改元というものは天皇の崩御に伴うもので、昭和天皇の崩御直後にあった平成の時のような何かこう自粛ムードの静まり返った中で行うものだと思ってたから、オイラみたいな古い人間は「え? 喜んじゃっていいの?」っていう気持ちになる。
それにしてもまさか上皇という方をこの目で拝める日が来るなんて思わなかったよ。今回のご退位に関する皇室典範の特例法が出来るまでは一世一元が原則だったから、本来は上皇が誕生することも、それを日常で口にすることもなかったはずなんだ。
そう考えると歴史というものが急に眼前に展開されたような気にもなるけど、でもそれは錯覚でさ、本来は切れることなく連綿と繋がれてきたものなんだよね。
歴史とは今であって今とは歴史である、そんなことを深く認識させてくれるのが皇室ってわけで、やっぱりオイラも陛下を前にすれば「今から日本共産党の本部へ特攻に行って参ります」ってなっちゃうもん。
まあそんなこんなで令和の時代を迎えちゃったわけだけど、例によってAmazonプライム・ビデオで新時代にふさわしいのかふさわしくないのかスタンリー・キューブリック先生の『2001年宇宙の旅』を見たから、それについてちょっくら感想を書いていこう。
『2001年』は芥川賞で、『インターステラー』は直木賞
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「何だお前は映画監督のくせに今の今までこんな名作を見てなかったのか?」とか言われちゃいそうだけど、まあ名作かどうかは置いといて、あんまり痛いとトコを突くんじゃない。今は令和だよ、めでたいんだから寛容にいこうよ。
聞くところによれば、偶然にもこの映画は評論の1回目で取り上げた『インターステラー』を語る上でよく引き合いに出されるということだけど、確かに宇宙の果てで主人公が未知なる何かと遭遇するというアウトラインは同じだし、パートパートで似たようなエピソードも出てくる。
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もちろん『2001年宇宙の旅』の方が遙かに古いんだけど、『インターステラー』はそのオマージュというよりも、挑戦という色合いが強いような気がするね。何だか作品にそういった気概を感じる。
ただ映像に底流しているものは180度違っていて、端的に言えば『2001年宇宙の旅』が芥川賞で、『インターステラー』が直木賞と言えばわかりやすい。『インターステラー』は鑑賞者を意識したエンタメ性のある作品だけど、『2001年宇宙の旅』は見る側を置いてけぼりにして撮りたいものを撮りましたっていう作家性全開の作品になってる。
その証拠にさ、とにかく女が出てこない。厳密に言うと最初の方でちらっと出てきただけで、後は『魁‼︎男塾』かと錯覚するくらいに男だけで話が進む。これには参っちゃったね。息苦しいったりゃありゃしない。商業性もクソもないんだよ。
と言うのは冗談で、商業性だってないことはない。何たって映像が良くできてる。これがキューブリック先生の腕なのか美術スタッフの優秀さなのかは知らないけど、とても1968年の映画だとは思えない。
もちろん現代のCGを駆使した『インターステラー』の精緻さには及ばないんだけど、宇宙空間の無機質さや孤独さを表現するのには却って模型やセットだけの方が伝わるのかも知れないね。
メカニックや科学考証は多少の『サンダーバード』感はあるけど今見てもそんなに違和感はないし、HAL9000ていう人工知能も出て来る。専門学校のHALじゃないよ。
ちなみに専門学校の方はIBMのアルファベットの1つ前を取ったってのが有名だけど、その発想はこの映画からパクったんじゃないかと思って調べてみたら、映画のHALにはちゃんと別の意味がありやがった。
芸術鑑賞に謎解きはいらない
まあこの映画は難解で有名なんだけど、確かにプライム・ビデオに付いてたAmazonのレビューなんかをザーッと見てみると、5つ星をつけているヤツでも「デジタルリマスターで映像が綺麗です」とか書いてて、映画そのものより版元の技術を称賛しちゃってる。
美術館で絵画を見て「実に額縁がいい」なんて言っているようなもんで、よくわかんないけど名作と言われてるから、自分の理解が及ぶところだけでお茶を濁してるんだ。
でもストーリー自体は至ってシンプルなんだよ。一応モノリスっていうデッカい板チョコみたいなのが重要なファクターとなるんだけど、これに触れると生物が進化するらしく、最初の章では類人猿がこれに触れて獣の骨を武器として扱うことを覚え、人間への道筋を開いていく。
ただこの類人猿が骨で骨を砕くシーンには笑ったね。この映画のメインテーマとも言える『ツァラトゥストラはかく語りき』がBGMで流れるんだけど、この曲はよくお笑い番組とかでも使われているから、何だかシュールな類人猿のコントを見せられているようで仕方がなかったよ。
まあそれはいいとして、その人類黎明の時代から急に宇宙へと映像が切り替わって、今度はそのモノリスが月の地中から発見された2001年に話が飛ぶ。で、この月のモノリスが木星に強く電波を発しているらしく、次の章ではそのミッションを伏せられた木星探査隊の話になる。
この木星探査隊が宇宙船と一体になっているHAL9000と生死を懸けたバトルを繰り広げ、1人生き残った主人公ボーマン船長が最後の章で木星近くに浮遊していたモノリスと遭遇して、導かれた白く妙な部屋で人間を超越した存在になり、地球に帰還してお終いとなる。
ちなみにこの白い部屋は『インターステラー』で言うところの5次元空間に対応するところだけれども、この映画はボーマン船長がその部屋で自分の別の姿を自分で目撃するなんていう、より抽象的な描かれ方をしている。
それについての解釈は色々とできるんだろうけど、ただこういったものは突き詰めたところで正しい意味を見出せるなんてことはないんだ。だってこれはキューブリックがあるイメージや意図を基に、そこに芸術的なインスピレーションを加味して映像に昇華させているだけなんだから。
それはこの映画全体に言えることで、モノリスが何だとか、類人猿のシーンはどうだとか、なんで赤ん坊になるんだとか、そういったものは全部キューブリックの内的世界の芸術的な感興であって、そこに他人が解答を求めてもわかるはずがない。本人だって論理で説明するのは面倒なはずだよ。だから見る側としては謎解きには向かわず、映画を身終えた後の印象や感慨だけで留めておくのが真っ当な在り方と言える。
『インターステラー』は解答の用意された知的ゲームだったけど、この映画は芸術鑑賞なんだ。映画ではなく「キューブリックの映画」という絵画みたいなものだから。
恥ずかしいのは「額縁」について語ること
この映画の脚本はSF作家のアーサー・C・クラークとアイデアを出し合って作ったそうで、クラークは同時並行的に書いていた小説で映画では意味不明だったシーンの背景についても書いているらしいけど、スーパーで同じ素材を買って帰った2人のおばさんが家庭では違う料理を作るのと一緒で、映画とは全く別物と捉えた方がいいだろうね。
監督にとって脚本というものはただの指針であって、実際に撮っていく中でインスピレーションがどんどんと湧いていけば、脚本段階で描かれたテーマや本質は簡単に霧散していくものなんだよ。オイラの映画もそうさ。
だからこの映画の名を借りたキューブリックの芸術にはオイラは共感するところや刺激を受けるところもあって楽しめたし、その理由をここに開帳したってもいいんだけど、それはある意味この映画以上に独りよがりなものになって、君たちの自由な印象や感想を阻害しちゃう恐れもある。
何か創作系の仕事をしている人間には名作だとかオイラのように刺激を受けたなんて感想を持つ者は多いだろうけど、ただ何の気なしに映画館に足を運んだ人が「なんだこりゃっ。金返せ」ってなるのも仕方がないと思う。それぐらい人を選ぶ映画だからね。
でも芸術鑑賞ってのはその「なんだこりゃ」でいいわけ。正解なんてないんだから。恥ずかしいのはその「なんだこりゃ」と素直に吐けず、絵画そのものじゃなくてあれやこれやと額縁についての薀蓄を並べ立てることなんだから。あ、これはオイラのことか?