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ゲーム 巨匠の映画評

【巨匠のレビュー】『デトロイト ビカム ヒューマン(Detroit: Become Human)』/映画が前時代的なものに見えてきちゃったぜ

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恐慌ウイルスの方が怖い

それにしても世間は新型コロナにヒステリーになり過ぎてるんじぁねーか。どう考えてもワクチンがある季節性のインフルエンザよりも感染速度も致死率も低いのに、こんなに経済を止めちまって大丈夫かい? 昨年なんかインフルで1日平均50人が死んでるって言うだから、せめて新型コロナの死者数がその3倍くらいに達してから騒いで欲しいぜ。潜在的な感染者はもっといるなんて言われているけど、仮にそうであれば死者に対する感染者の母数がさらに大きくなるわけで、致死率がさらに下がって益々大したことがないウイルスだってことの証明になるんじゃないの。

それにオイラみたいな老人が外を歩くと変な目で見られるのも違うだろって。経済の疲弊だってある種のウイルスなんだから、放って置くとバタバタ人が死んでいくんだよ。だからこそ感染防止と経済活動のバランスをうまく取って行かなきゃなんないのに、老若男女全てを家に閉じ込めてコロナ対策に傾注し過ぎるのは非常にマズイ。それじゃ恐慌ウイルスの死者数が今後、爆発的に増加して行くに決まってる。つまりは何処かで並行して経済を回さないといけないから、その役目を老い先短いオイラたちが命を賭してやってあげてるのよ。その上で新型コロナに罹って次々にポックリいっちゃったら、それはそれで社会保障費も浮くことになるから儲けもんじゃない? もはや老人たちは戦前の神風特攻隊のようなことをやってんだから、死んだらしっかりと救国の志士として靖国神社にでも祀ってくれなきゃ、浮かばれないってもんよ。

と言ったわけで映画館も閉まっているし、かと言って家の小さな画面で旧作も見る気が起きない。そうした中で軍団のつまみそら豆からTVゲームを勧められてよ、まあ外にも出れないこんな時勢だからとプレイステーション4の『デトロイト ビカム ヒューマン(Detroit: Become Human)』なるソフトをやってみたんだけど、これがなかなか映画人には考えさせられるものだったんだよ。ということで今回は番外編ということで、このゲームソフトについて語って行きたいと思う。

作品とプレーヤーの双方向によって完成される芸術

考えさせられるって言ったのはこの作品のストーリーじゃなくて、そのゲーム体験にだね。ストーリー自体はごくありがちな、近未来のデトロイトで奴隷の如くに扱われているアンドロイドの何体が意思を持つ「変異体」になって人間に反旗を翻して行くって話で、プレーヤーは置かれた環境の違う3体の変異体を操作して物語を進めていく。

で、このゲームのシステムはその局面局面で主人公が取る行動の選択を求められて、その選択によってストーリーとエンディングが無数に分岐して行くという「オープンシナリオアドベンチャー」なんだ。

ファミコンの時代にもプレーヤーの選択次第でストーリーが微かに変わっていく作品もあったことはあったけど、こんなほぼ実写みたいな映像と芯のあるシナリオでもってそれをやられると、なんだか映画というものが前時代的なものに見えてきちゃったよ。

映画というのは一方的に鑑賞者が映像を享受するだけで、そのフィルム自体で既に芸術としては完結してるんだけど、この『デトロイト〜』は作品とプレーヤーの双方向のアクションがあって初めて完成される芸術といった感じで、もちろん映画だって厳密には人間が鑑賞した上でそれを芸術だと認定することで芸術として昇華されるんだけど、このゲームはプレーヤーが実際に物語に深く関与して、そのプレーヤーの数だけ作品の表情を変えて行くんだ。

映画は映像や音楽、演劇が融合した総合芸術なんて言われてるけど、このゲームはそこに鑑賞者(プレーヤー)を介在させてもう一段階上の総合芸術を創出したようで、映画人のオイラとしては「これには敵わない」ってちょっとしたショックを覚えちゃったね。簡単に言えば映画の世界に入って主人公になれちゃうってことだから、もう没入感が映画とは段違いなんだよ。

シナリオ作成の労力に気が遠くなる

ストーリーしては冒頭にも言ったように凡庸なんだけど、プレーヤーの選択によって様々に筋が分岐していくから、そのメインの筋立てとしてはやっぱりシンプルにならざるを得ないかとは思う。メインの骨子さえも複雑でそこから幾筋も話が派生していくとなると、限られた開発期間の中では収拾がつかなくなるからね。

まあいくらストーリーがシンプルだからと言ってもこの枝のように分岐していくシナリオを書く労力を思うと、オイラも映画の台本は自分で書いているだけに気が遠くなっちゃったよ。分岐した先にまた分岐があって、それを凡そ矛盾なくまとめて行かなきゃなんないからさ。よくやるよ、全く。もちろんオイラと違ってこのゲームシナリオは複数人で書いてるんだろうけど、分岐しないシナリオに唸っているオイラが何だかバカに見えてきちゃった。

ただシナリオの内容で鼻についたのは、この作品が奴隷制の風刺や反省から来てるからなんだろうけど、とにかく出てくる黒人が全員善良に描かれていたことだね。これは過激なフェミニストが男女平等ではなく逆に男性差別を生んでいる歪みに近くて、人種を問わずにろくでなしはいるんだから、そういった偏りのある描き方はやめて欲しかったね。

それに純粋なゲーム操作として楽しかったかと言えば、微妙と言えば微妙だったかな。反射的な操作を求められる局面は多々あるんだけど、おそらくアクションゲームのそれには全然及ばなくて、基本的には主人公の行動選択をボタンで選んで進めるだけだから、ゲームはPS2以来でかつ老体のオイラでも無理なく進められたということを考えれば、娯楽的な刺激という意味では少ない作品だったと言える。

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巨匠がゲーム業界に参入?

おそらくゲーム業界はこれからもプレーヤーの主体性を生かして、この手のオープンシナリオをどの作品にも採用させていくような流れになっていくような気がするけど、そうなると映画業界としては頭を抱えるよな。映画の表現としては3Dはもうあるから後はVRといった擬似体験的なものにしか伸び代は見出せなくて、そのVRに関しても既にゲーム業界は手を広げちゃっている。それこそこのVRの上にオープンシナリオゲームでも作られた日にゃ、映画の命日になる可能性だってなきにしもあらずだよ。

その昔にラジオがテレビに駆逐されたように、近い将来、映画もゲームの台頭によってエンタメの端っこへと追いやられて、今のラジオのように一部のコアな物好きだけが見るようなものに変質するかも知れない。それはそれで文明の流れだから仕方がないんだけど、映画界として何としても時代の波に一矢でも報いたいところではある。

じゃあどうするのかって言えば、ここはエンタメ業界の先輩としての見栄は綺麗に捨て去ってだね、このオープンシナリオを映画にも採用するんだよ。大体物語の30分あたりで一旦スクリーンの映像を止めて、「AかB、あなたならどちらを選びますか?」と画面に出す。で、次に「Bの人は3分以内に5番シアターにお移りください」なんてやるわけ。どうよ、これなら映画もしっかり鑑賞者の意思で分岐していくでしょ? 何、それはもう映画館じゃなくて今流行りの脱出ゲームに見えるって? まあ、そんな媚びを売るようなやり方じゃ益々映画の退廃が早まっちまうか。やっぱり正攻法でガチンコに映像と物語で勝負するしかないかな。

まあオイラ個人に関しては過去にファミコンで『タキノの挑戦状』というオープンワールドの先駆けとも言えるクソゲーを作っているから、そのリメイクだと言ってゲーム業界にすがるという手もある。ということで「映画は死すとも、タキノは死せず」。まあよくよく考えればオイラは漫才師で、片手間で映画を作るたびに赤字だったから、映画界の衰退はオイラにとっては道楽を止めるいいきっかけになるかも知れないね。

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