イチローへの敬意を欠いた試合開催
ボンジョールノ、諸君。
イチローの引退に関して中日の松坂大輔が会見を開く予定だったが、記者との受け答えでは安易な言葉になってしまうと文章でのコメントに差し替え、大先輩への敬意から急遽取りやめたらしい。さすがにベース・オブ・ボール人は礼節を弁えている。
それに対して日本サッカー協会はと言えば、商業主義に毒されて昨日のキリンチャレンジカップの日本―コロンビア戦を強行に開催し、偉大な母国の英雄を蔑ろにしてしまった。その報いが0―1という敗戦の結果として表れたことは言うまでもない。
初めに断っておくが、私はこのフレンドリー・オブ・マッチに対してマニア・オブ・ビューを作動させてはいない。極秘来日中であったために試合の時間はちょうど飯時で、言うなれば箸を片手にディナー・オブ・ビューという軽さで観戦していたのだ。
故に詳細なマッチ・オブ・レビューは控えるが、一口に言えば中島翔哉のワンマンショーであった。
「プレー」ではなく「状態」が攻撃のスイッチ
中島不在のアジアカップでは大迫にボールを入れるという「プレー」が攻撃のスイッチとなっていたが、中島がいれば彼がボール保持しているというその「状態」が既にスイッチとなる。
そこからドリブルで相手を剥がして数的優位も作るもよし、また裏への1本のパスで決定機を演出するもよし。スペースができれば精度と強度を伴ったミドルも飛び出し、その個だけで様々な局面を描けてしまうのだ。オフェンスにおいては高さ以外の全てを持ち合わせたワールド・オブ・クラスに限りなく近いプレーヤーだと認められる。
ただ後半にはコロンビアがその左サイドの中島の守備の軽さを突いて攻撃の比重を高めてきたため、低いポジショニングを余儀なくされ消えた時間帯もあったが、その守備の危うさを差し引いてもチームへの影響力を考えれば、原口や乾よりもサムライ・オブ・ブルーでは断然のファーストチョイスとなる。
しかし諸君らは思うだろう? なぜそれほどの選手がポルトガルからカタールへ半ば都落ちのような移籍をしたのかと。選手としての向上を図るなら、欧州の4大リーグに挑戦すべきではなかったのかと。
移籍先がカタールという地である意味
確かにそういった意見も一理はあるだろうが、ただそれは自分の栄達しか考えない如何にも西洋の個人主義的な発想だと言わざるを得ない。あくまでも中島は滅私奉公が文化として根付くハポネス(日本人)なのだ。
カタールという地が何を意味するのか、諸君らの足りない頭でよく考えるんだ。そう、2022年のワールドカップ開催地だ。つまり中島は日本代表がW杯でベスト8という壁を破るために、自分のキャリアを投げ打ってまでカタールに先乗りし、その文化や風俗、人々の気質を密偵しているのだ。
さらには中島自身がアル・
常に目の前の現象や欲に囚われる近視眼的な諸君らも、少しは中島の爪の垢を煎じて飲んでみてはいかがだろうか?