単細胞にはおあつらえ向きの作品?
編集者のあんちゃんが「巨匠! 話題作の『IT』の続編が公開されているんでその評論をお願いできないでしょうか」なんて電話してくるから「1章も見てないのに急に続編なんて言われてもしょうがないでしょ」って返したら、「あ、でしたら今日の夜ちょうどテレビで1章が放送されますので、それで予習をしてから」とか何とか言いやがるんで、面倒臭いからとりあえず了承したのが先週の金曜日。この時の軽い対応が災いの元だったね。
まずテレビでやっていた1章がとんでもなくひどい代物で、その続編をわざわざ金を払ってまで劇場に見に行く気もしなくてさ、とにかく何事もなくやり過ごそうとしてたらまたあんちゃんから電話が掛かってきて「巨匠! そろそろ原稿が上がりますか?」とか催促してくるから「いやテレビの収録が忙しくてまだ見てない」って答えたら電話口の向こうで「あー!」なんて叫び声が聞こえてきて、見ると目の前にスマホを持ったそのあんちゃんがいるんだ。
馬鹿みたいに手を大きく振りやがって出征兵士の見送りじゃないんだから、いい大人が恥ずかしいったらありゃしないよ。「偶然じゃないですか? ちょうど今から僕『IT』を見に行くところなんで、まだ見てないのなら是非ご一緒に」と断る暇も与えず映画館に誘導されて、その大ヒットしているらしい続編『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』をなぜかオイラが2人分の金を払って見せられたんだけど、これがまた1章に負けず劣らずクソみたいな出来でよ、あんちゃんは見終わった後に「面白くて、怖かったですね。略してオモコワ」なんて満足げにしてたけど、なるほど知能レベルの低い単細胞にはおあつらえ向きの作品だったんだね。
1章と同じ構図の焼き直し
そういえば客席のほとんどは若いヤツらばっかりで、まともな大人は人生経験に裏打ちされた野生の勘でこの映画の被害から免れていたように見受けられるね。映倫のレイティングはR15+だったらしいけど、逆にR15−にしていい大人が鑑賞できないようにすべきだよ、本当に。
タイトルに「“それ”が見えたら終わり」なんて謳っているけど、それが見えても全然終わってくれないし。確かにこの映画を見てしまったのは人生の貴重な3時間近くをドブに捨てるようなものだから、ある意味では“観客にとっての終わり”だったのかも知んないけどね。オイラなんてこの1週間でテレビの1章と合わせて都合5時間を無駄にしたことになるんだから、全く生い先が短いのに勘弁してほしいよ。
考える頭のない子供がこの映画で見てキャッキャと騒ぐのはまだいいとして、いい歳こいたあんちゃんが鑑賞後に文句の一つもないとは頂けない。しかし今思うと、この映画を映画として見たオイラがそもそも間違っていたのかも知れない。これはお化け屋敷と言うか、何も考えずに目の前に展開されたものを楽しむだけのアトラクションのようなものであって、そこに何か深い人間模様を求めようとする姿勢こそが根本的に誤りだったような気がしてきた。だから馬鹿には心地よくて、まともな人間には受け付けないわけだね。
わざわざこのITという映画は仰々しく1章と2章とに分けているけど、どっちも話の構図は全く同じ。主人公グループが平等に1人ずつ気持ち悪いピエロからちょっかいをくらって、最後はそのピエロの棲み処に突入してやっつけちゃう。ただそれだけ。1章ではガキだった主人公らが2章では中年のオヤジとババアになってより絵が汚くなっただけで、言っちゃあ悪いけどただの焼き直しだよ。その話自体が面白けりゃまだいいけど、これがドラマとしての体を成してなくて、端的に言えば物語が推進していないんだよ。
観客に謎を提示できない欠陥
つまりこの話はピエロを殺すことがゴールなわけでしょ。だからドラマとして見せるんなら主人公グループがピエロに殺されそうになりながらも各自がピエロの習性や弱点、つまりは攻略方法を見出していって、最後はそれをみんなで持ち寄ってピエロを追い詰めていくってのがドラマなのに、はじめから仲間の黒人が先住民族の儀式を持ち出して魔封波(『ドラゴンボール』)はこれだなんて言っちゃってるんだから(結果的には間違っていたけど)。
だったらやることと言えば、もうピエロの棲み処に突入してその儀式を実行するしかないんだけど、それじゃあすぐに話が終わるから、各自を記憶喪失に設定して思い出の品を持ち寄るなんてタスクを設けている。でも、そのタスク自体が物語の軸に濃く絡みついて来ないわけ。
確かに昔の自分を思い出すなんてちょっとしたノスタルジーな効用はあるけど、それがピエロと対峙する上で何か手掛かりを得るようなシークエンスになってなくて、むしろただ客を驚かすために挿入されただけのサービスカットになっているから、話自体は停滞したままなのよ。現場のクリエイターが「こんなすごい化け物を作って、こんな怖い演出をしてみました」なんて内輪だけで悦に入っているような感じでさ。
つまりピエロを倒すためにはどうすればいいのかという謎を客に提示できていないんだ。映画の一つの醍醐味である「解決方法はなんだろう?」という能動的な推理意識を客に促すことができず、ただ客を傍観者に釘付けして、お化け屋敷のように出てきたお化けについて頭を使わずにキャーキャーと騒がせるだけになっている。
誰か曰くピエロは恐怖につけ込んでくるらしいんだけど、その恐怖という概念について主人公らが深くアプローチした痕跡もない。ただ台詞で「これは幻想だ!」なんて喚いてばかりで、彼らが本当の意味でピエロと正面切って対峙するのは変な儀式用具を持ち込んでピエロの棲み処に特攻するクライマックスだけ。良く言えば単純でガキには心地良いんだろうけど、映像から自分で物語を咀嚼していく大人には正直キツイよ。
スティーヴン・キングはキューブリックに感謝すべき
最後はジュブナイル的な感動で映画を締め括るんだけど、そうであるならばしっかりと主人公グループの日常やドラマをもっと太い幹にして、その枝葉としてピエロを組み込んでいくべきでしょ。それなのにドラマとしては強靭になり得ないホラーやピエロといったものを骨組みにして、そこに我田引水的に後付けでジュブナイルをうっすらと練り込んでいるだけだから、物語の軸がふらふらとしていて実に本末転倒。
実際にはそういった作り方をしてたわけじゃないかもだけど、露骨にそんなことを見る側が感じちゃうんだから、作劇に大きな欠陥があったことは間違いないね。ただ何も定石を踏めとは言ってないよ。意図を持って計算ずくで定石を外れるならいいけど、そんな形跡もなく無意識に外れたように破茶滅茶になっているから言っているんであって、意味の薄いホラーなサービスカットをふんだんに見せたいのなら、感動要素に色気を出すんじゃなく『死霊のはらわた』みたいに潔くスプラッター路線で貫いた方が見る方もまだ割り切れたはずだよ。
そんなふうに中途半端にやっちゃった結果が、最後の肉弾戦だもんね。なんなんだよ、あの洞窟での駆け引きは。「小さな穴に入ればアイツ(ピエロ)も小さくならざるを得ない。小さくなったところでやっつけよう」って、園児相手の紙芝居じゃないんだから(笑)。で、最後は悪口攻撃でピエロが縮こまって死んじゃうんだから、さすがにこれは近くで見てたマヌケそうな高校生も目を丸くしてたぜ。あれは昨今の言葉狩りに近いヘイトスピーチ批判に対する皮肉か何かかい?
スティーヴン・キングの原作をどれだけいじったのかはわかんないけど、ほぼ原作のままなら彼のやっつけ仕事としか思えないよ、この作品は。そもそもが当たり外れの激しい作家で、アイデアにドラマが負けちゃう傾向があるからさ。自身が原作であるキューブリックの『シャイニング』については未だに度々と批判しているらしいけど、天才に手を加えてもらったことにありがたいと思わなくちゃ。だって凡人がキングの作品を凡庸に扱うと、こんな出来になっちゃうんだからね。