良作の期待がキズを大きく見せる
「Amazonプライム・ビデオだと旧作ばかりになるんで、アクセスを上げるためにも新作をお願いします」なんて編集者のあんちゃんが懇願するもんだから仕方なく劇場まで足を運んで行ったんだけど、残ってた席が前から2列目くらいしかなかったから首が疲れて参っちゃったよ。まあそれほどこの『ジョーカー』という映画は話題作で、ベネチア映画際ではオイラと同じ金獅子賞を取ったというからちょっくら期待して行ったんだけど、やっぱり見る前にハードルを上げちゃうのは良くないね。
何の予備知識もなく見てりゃ掘り出し物を見つけたなんて思ったかも知んないけど、期待をしながら前掛かりに鑑賞すると、良作を求めちゃう余り小さなキズでも目立ってしまう。
その昔、谷崎潤一郎が日本文学史上屈指の名作『春琴抄』を書いた時に、川端康成がそれを評して「ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない」と称揚した上で、だからこそ主人公の春琴が鶯を愛でる部分については他に比べて実感が伴っておらず、手薄になっていて玉に瑕だなんてことを言っていたけど、それに近い現象かも知れないね。
ただこの作品に関してのキズは、オイラのように見る人にとって大きなキズとは言わないまでも、何かわだかまりを残すようなものであった気がするよ。
アーサーは元からジョーカーだった?
この映画を簡単に要約すれば、タイトルの通りバットマンでお馴染みの悪役ジョーカーに、コメディアンを目指す男、アーサーが徐々に変貌していくまでの話なんだ。
で、この作品は映画『タクシードライバー』に着想を得て脚本が書かれたらしく、映像にもその影響がちらほらと散見されるんだけど、主人公のキャラクターの内面展開までをそのままなぞっちゃったのは首を捻るところだね。
つまり何が言いたいのかと言うと、タクシードライバーはあくまでも一人の凡庸な人間を描くことが主題だから映画が終わってもトラヴィスはトラヴィスのままであってもいいんだけど、この作品はジョーカーという悪のアイコンを取り扱うからには、一人の人間を描きながらも最後は悪のカリスマへと変身を遂げるまでを描かなきゃいけないのに、最後までジョーカーにはならずアーサーの内面レベルのままで幕を閉じていくんだ。逆説的に言えば、初めからジョーカーであって、色々事件はあったけど、結局そのままジョーカーとして終わっちゃったって感じ。
このアーサーは母の介護をしている貧困層の社会的弱者で、笑いの発作が突然襲ってくる病気も抱えている上に妄想も激しいから、言っちゃあ悪いけどデフォルトの設定からして不気味なんだよ。その不気味さのままで道化のメイクをしてジョーカーという名になっていくだけで、実はコインの表と裏がひっくり返るような内面の転換は行われていないわけ。
地下鉄で上級国民の証券マン3人を殺して貧困層の英雄と崇められて自分の存在を確認したり、愛していた母親からの虐待により精神病を患ったことを知ったり、憧れのコメディアンにコケにされたりと、色々とアーサーの内面を揺さぶる出来事はあったんだけど、それはあくまでも元の負の感情がより負に深まっただけで、正の感情が負に転換したわけじゃないんだよね。コインの裏表が入れ替わったんじゃなくて、裏に付いていた汚れがより強くなったようなもんでさ。つまりこれは変身物語じゃなく、終始アーサーであって、終始ジョーカーなの。
ストーリーが進んでいっても終始、負のテンションのままだから、余り映像の空気感としては変わり映えしていかないんだ。おそらく制作側が意図したアーサーがジョーカーになる本当の瞬間ってのは最後にパトカーに連行される途中で事故に遭って、群衆とのケミストリーをもった車の上でのダンスのシーンなんだろうけど、あれは悪のカリスマというよりは貧困層のカリスマになったってだけだからね。
社会問題を絡ませるならジョーカーは不適当?
バットマンが主役の『ダークナイト』はイラク戦争における米国の正義のジレンマを描いていたけど、この作品の制作陣は今流行りの二極化された米国や世界の分断を絡めようとしている。だからアーサーは貧困層や弱者の代弁者として描いていて、そういう意味では新たなジョーカー像を描いたとは言えるんだけど、その実は描いたというよりもそういった社会問題を映画として炙り出すために、クセは強いけどジョーカーを凡庸な人間に制限せざるを得なかったと見る方が正解なんじゃない。
バットマンをあまり知らないオイラを含め一般的なジョーカー像としては、道化でありながらも冷静で冷酷でずる賢いというイメージなんだけど、このアーサーはそこから大きく乖離しているから、やっぱり見ている方としてはその合理的で人間的な変化に対しては物足りなさを覚えていく。
ジョーカーと言うからには負が負に深まるんじゃなくて、正(真っ当な人間)が負(狂人)にひっくり返るような混沌を期待しちゃっているからさ。これはただの社会的弱者が段階を踏んで暴走したってだけだから、極論を言えば、こうした社会問題を風刺するなら社会とは隔絶して善悪を弄ぶジョーカーでは不適当だったんじゃないかな。
ただ、ジョーカーとは離れて一人の社会的弱者を描くと言うことに関しては成功しているよ。つまりさっき言ったように、コインの裏側がより汚れていく過程を合理的かつ人間的に濃密に描けていた。それは脚本にあるような台詞やシーンもそうだけど、その行間を見事に演じ振る舞った主演のホアキン・フェニックスの力によるところが大きいね。
『ザ・マスター』でもそうだったけど、ネジが一本外れたキャラを演じさせたらこの人の右に出る役者はいないんじゃない。病気のことをからかっちゃいけないけど、ショーパブの舞台で発作を起こしてアーサーの笑いが止まらないシーンは、演技が上手いからシュール度が増してしまって思わず笑いそうになっちゃったよ。そういや周りの客も映画とはいえ病気への引け目からか笑ってなかったね。
血生臭い描写や貧困層が富裕層に対して暴動を起こすという憎悪や対立を助長する内容から米国では公開前に注意喚起があったらしいけど、この映画を米国よりも公開しちゃまずいと思っているのは香港政府なんじゃねーの。香港政府はデモ隊が覆面をしているから最近、覆面禁止法なんてのを制定したらしいけど、映画でも暴動をした大衆がジョーカーに共感してピエロの仮面を被ってたからね。
と思ってちょっくら調べてみたら、驚くことに香港は日米よりも先に公開されているらしい。なるほど、まだまだ香港の自由の灯は消えてなかったということだね。