歴史的傑作になり得る可能性もあったが…
よう、君たち。元気だったか? しかしかなりのご無沙汰だったね。何も前回の『君の膵臓をたべたい』というとても鑑賞に堪えるものじゃない代物を我慢して見たせいで、オイラの精神がひどく病んでしまったんじゃないかと心配してくれてたかとは思うんだけど、実は特に理由がないんだ。編集者のあん(兄)ちゃんから全く原稿の催促がなかっただけでね。あのあんちゃん、何だか抜けた顔をしているから、オイラの存在をシンプルに忘れてたんじゃねーかな。
それにしても前回がクソ映画の極地だっただけに、今回取り上げる映画はラッキーだよ。とんでもなく不味い飯を食った後じゃ普通の飯でも美味いと錯覚するようなものでさ、もう駄菓子屋の「キャベツ太郎」ですらありがたく思うような感覚になってるから、批評のハードルが下がっちゃってるもん。
そこに来て今回の映画がタランティーノの新作と来れば、これは上述のバイアスもかかって映画史上の傑作だなんて口走ってしまう事態もあり得たんだけど、結果的にはそのような好条件にも拘らず、少し肩透かしを食らった気分になったね。それも偏に監督タランティーノのこの作品ひいてはこの1960年代という時代への思い入れの強さが仇となっている気がするね。
珍しく需要と供給のバランスが崩れる
創作の根底には作者の思い入れやこだわりが当然にあるものなんだけど、それを商業の上に乗せる場合にはその思い入れと鑑賞側が求めるであろう要求との折衝が重要となってくる。映画とは言うまでもなく商業そのものだから、その配合をギリギリの所で落とし込めるかが作品の出来に関わってくるんだ。
本来タランティーノはその配合が絶妙に上手い監督なんだけど、今回の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は個人的な思い入れの強さが祟り、珍しく配合のバランスが崩れちゃってる。彼の子供時代におけるハリウッドへの強い郷愁や憧憬、つまり自分の見たい理想の情景を撮ろうとする余り、観客側の需要とのミスマッチが起きてるんだ。
その最たるものがシャロン・テートだね。このシャロンはカルト教祖のチャールズ・マンソンに教唆を受けた信者らによってお腹の赤ちゃんと共に惨殺されたことで有名だけど、彼女の悲劇的な側面よりも、あの時代のハリウッドを謳歌していた一人の女性の日常の幸福だけを描こうとしている。
シャロン事件が起こらない是非
ネタバレになるけど、彼女は映画の中では死なないんだ。タランティーノのインタビューを読む限り、それはおそらく彼女に対する彼なりの哀悼や同情であって、マンソンの信者らはこの映画では主人公の俳優リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)の家に行っちゃう。つまり、その事件すら起きなかったことになっている。シャロンが事件に巻き込まれず幸せのままでいるという、監督本人が見たいもう一つの世界線を作品に投影させているんだな。
でも、ある程度の予備知識がある観客は鑑賞中にシャロンがいつ事件に遭遇するんだろうという所に気がいってるから、その事件すら起きないってなると「あれっ」と思うわけ。いくらリックの家で格闘があっても、いやまだシャロンは生きている、まだ何かあるぞって目の前のシーンよりもその先へ思考が働いちゃってるから、結局リックの家だけでシーンが完結しちゃうと演出の構造上、物足りなさが残るんだ。タランティーノのセンスと力量を知る我々としては、事件を史実通りに描きながらも、起きた上で何か爽快で刺激的な改変をしてくれることを期待しちゃっているからさ。
また、色々と作中劇なども交えながら当時のハリウッドの裏側やカルチャーなどを描いてるんだけど、タランティーノほどあまり観客は思い入れや興味もないから(オイラだけかも)冗長に映るし、会話やギャグの部分もいつもに比べてソリッドさがない。でもこれに関してはオイラが見た劇場ではそこそこ外国人も入ってて、彼らだけが笑ってるっていう場面がいくつもあったから、単純な言葉の問題であるのかも知れない。ただ最後にあったリックの「カリカリに焼いてやった」という台詞には笑っちゃったけどね。
板垣恵介を彷彿させる人物造形
それでもやっぱり人間の描き方は相変わらず魅力的でパワフルなんだ。それは漫画「バキシリーズ」の作者、板垣恵介を彷彿とさせるもので、板垣はキャラクターを創作する時にそのキャラが「とてつもなくどういう人なのか?」という問い掛けをしながら考えるそうだけど、タランティーノが描くキャラもそれに近いものを感じさせる。この映画のリックもアル中のくせにとてつもなく繊細だし、もう一人の主人公でリックのスタントマン、クリフ・ブース(ブラッド・ピット)だってとてつもなく不気味でマッチョなんだ。
登場人物で言えば、この時代にはヒッピーとかもいて、そのヒッピーの女に腋毛があったのも何だか生々しかった。最近じゃ剃り残しを見かけることはあっても放置したものを見ることは余りないから、陰毛を見るよりも妙にエロく感じちゃったじゃないの。ただこの女が車のダッシュボードに足を乗せてたんだけど、その足の裏に魚の目みたいなのがあって、腋毛のエロさもぶっ飛ぶほどの歪さだったんだよなぁ。あ、いけね。こんなことを言っちゃうと魚の目ヘイトだとかクレームが来ちゃう。この手のパーソナルな話は最近うるさいからね。
後、やっぱりキャラがダイナミックに生きているだけに、その挙動における生活音がまた良いわけ。まあこれはこの映画に限ったことじゃなく、タランティーノの作品全般に言えることなんだけど。クリフが自宅で飼い犬にドッグフードを与えながら自分の夕飯を作るシーンなんて実にいいサウンドをしている。餌入れに缶のドッグフードを的当てのようにくだらないやり方で落とすんだけど、そのクチャって音が何だか心地いいし、自分用に作ったマカロニみたいな汚い飯をその調理音でなぜだか美味そうに見せてくる。
エゴ丸出しの作品もあっていい
ただそういったディティールやパートパートのシーンではタラ節は健在なんだけど、従来ならそんなパートパートや伏線を強靭な鎖で繋ぎながらクライマックスへ怒涛のように流れていくところを、今回の映画ではその世界観を何とか自分の求める綺麗な理想に留めようと繊細になり過ぎているために、その鎖が紐のような緩さになってるんだ。
しかしそうは言っても作品とはあくまでも監督のものだし、今まで散々、サービス精神の塊みたいな映画を提供してくれてたんだから、1つくらいは自分へのご褒美としてエゴ丸出しの作品があってもいいかとは思う。この作品へ懸ける愛情が強い故いつもの作風に比べてややスイートに過ぎるところはあるけど、それはまた紛れもなく彼の一つの側面であって、また一つの魅力として認知されることになるだろうね。
ややネガティブな批評になっちゃったけど、それもタランティーノという巨匠に対する期待の裏返しであって、前回の『君の膵臓〜』なんかとは同じ映画という括りで比べてはバチが当たるようなクオリティーであることは確かだよ。金を払ってでも見る価値があることをオイラが保証しておこう。