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松本人志の「作品に罪はある」論に名将が異議を唱える!

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BarbeeAnne / Pixabay

フェルメールの絵画を如何に見るべきか?

ボンジョールノ、諸君。

昨年から今年にかけて日本では東京と大阪でフェルメール展が開催されている。フッボル以外に教養を持ち合わせていない諸君らに一応断っておくが、決してリヴァプールのフィルミーノ展じゃないぞ。『真珠の耳飾りの少女』で有名な17世紀のオランダの画家、ヨハネス・フェルメールだ。

私もしばらく前の極秘来日時に足を運ばせてもらったのだが、なるほど……よくわからんが、とにかく鑑賞されるに値する芸術性の高い絵画であることはセブン・オブ・センシズで理解した。

ただその絵画を鑑賞する際に、私は作者であるフェルメールの人格や創作過程を踏まえた上でその作品を評価すべきだろうか?

なぜ私がこんな話をしているのかと言うと、お笑い芸人のヒトシ・マツモト(松本人志)が、芸術に対してドーピングという言葉を持ち出してきた事に違和感を覚えたからだ。

ダウンタウンの松本人志が17日、フジテレビで放送された「ワイドナショー」に出演。コカインを摂取した麻薬取締法違反容疑で12日に逮捕されたピエール瀧容疑者について言及。逮捕前に撮影された映画の公開が中止になったり、CDが販売停止・回収する事態になっていることについて、「作品に罪はある」という見解を示した。

映画監督も務める松本は「僕は監督もするんで、僕が映画監督した(作品で)…主役級の人が薬物で公開前に捕まった…(とすると)」と考えれば、という前提でコメント。「薬物をという作用を使ってもしかしたらあの素晴らしい演技をやっていたのかもしれない、となると、それはある種、ドーピング作品になってしまうので、僕は監督としては公開してほしくないですけどね。作品に罪はない、作品に罪はある…っていうことで言うと、僕は場合によっちゃ(罪は)ある、と思うんですよ」と語った。

音楽もしかりで、「レコーディングの時にそういうもの(薬物)を吸ってて、それですごくいいものができたと思うと、これは僕はドーピングだ、と思うので、ダメだなと思いますね」との考えを語った。

(デイリー)

スポーツではドーピングが「悪」なワケ

そもそもドーピングという言葉はスポーツ以外の分野には馴染まない。と言うのも、「ドーピング=悪」という図式はスポーツの世界でしか成り立たないからだ。末期がんの患者がモルヒネを使用することに、ドーピングというネガティブな表現は使わないだろう。

ではなぜ悪なのかと言えば、それがスポーツの理念を破壊する行為だからだ。スポーツとは競技内におけるルールの統一性のみならず、競技に臨むまでの鍛錬における平等性が担保されてはじめて、その記録に輝きが生まれ、選手は名誉を受ける。

鍛錬における平等性とはつまり、薬物の排除だ。よって鍛錬の過程で薬物を注入して肉体の増強を図れば、スポーツの根幹である平等性が失われてしまう。すなわち「ズル(悪)」が生まれてしまうわけだ。逆説的には、皆が同じベクトル(同条件下での競争)であるスポーツだからこそ、ズルが生まれてしまうとも言える。

ASKAに見る芸術の固有性

しかし芸術にはそのズルが生まれてくる余地がない。なぜなら、感性や芸術性というものは十人十色で、皆違うベクトルを持っているからだ。

わかりやすい例で言えば、歌手のASKAだ。彼も薬物を使用してめでたく御用となったが、だからといって同業者や一般人らから「きたねーな。俺だってクスリをやってたら『SAY YES』の一つや二つくらいは書けたよ」なんて声は聞かれなかったはずだ。

当然だ。『SAY YES』はASKAの中にしかない感性を種としているだけに、他の誰かがどれほど薬物を摂取したとしても、そのメロディーや詞を紡ぎ出すことはできないと周囲が理解しているからだ。それはASKAへの敬意であると同時に、感性の違いをそこに見出しているのである。

それが芸術なのだ。芸術(感性)というものは人それぞれに固有のベクトルがあり、ベクトルを一にしないが故、創作過程における公平性も存在しない。創作に至るまでの公平性がそもそもないのだから、その過程で如何なる作為があろうとも、それによって作品に罪が付加されたり、価値が毀損されることはあり得ない。

鑑賞とはシビアかつ無節操なもの

考えてみたまえ。仮に「フェルメールは当時、薬でラリッていた」というスクープが今、世を駆け巡ったとして、フェルメール展を訪れる人々の客足は鈍るだろうか? また展示されている絵画の芸術性に傷がつくだろうか?

ラリッていたからこそ名作が生まれたとしても、その名作が余人をもって替えがたいものであるならば、自己の精神や肉体をも蝕んでまで至高の芸術を世に送り出してくれたことにむしろ我々は感謝すべきではないのかね。

芸術とは創作でもあり、また鑑賞でもある。その鑑賞とはシビアかつ無節操で、どんなに品行方正な人間でも、その作品の出来が悪ければ見向きもされないし、逆にラリッた人間の作品でも、衆人の感興を引き起こすものであれば称賛を受ける。それは芸術至上主義という洒落たワードでもなく、芸術上における人間の自然な欲求なのだ。

よってピエール瀧よ、君が過去に行った電撃ネットワークにおける過激なパフォーマンスは決して色褪せることはない。

 

<編集者より>名将は「電気グルーヴ」と「電撃ネットワーク」を勘違いしているようです。

 

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